月を見ている時、私は月に見られている。

10月と11月の振り返りをやらないと行けないと思いつつ、12月も半ばになってしまった。


気を抜くと、こうやって時間の経過に慣れてしまうのだ。

実は、この記事はもう二回ほど書き直しを試みている。


この記事とライブスケジュールくらいしか公式サイトの存在意義がないのだから、せめて定常ペースを守りましょう、というような話は、一回目の書きかけにも書いたことを覚えているくらいには、サイト更新に関して気を配っている。


気を配っているなら、書けよ、という話である。

レコーディングも佳境に入り、残すところジャケットなど音源以外の部分となった。

アイディアはあるが、イモって動けていない。

しかしなんとか年内に軌道に載せたい、とは思い続けている。


一体何度リテイクやミックスし直しをしたか。

パートを録って、まるまる吹き飛ばしたなどざらにあった。

アイディアを形にするのに小一時間かけ、それをボツにするということもやった。


しっくりくる、という不確かで替えようのない感覚を得るために、大人が動く。


大量生産、効率、そのへんを気にしていたら身動きなどできない。

もしかしたら、こんな風な音楽制作は時代にあっていないのかもしれない。

そこでなんとか少ないコストで形にするのが、プロのあり方のひとつなのかもしれない。

そういう意味では、私はプロには一生なれやしない。


文章がある。

30年以上生きてきたときに、たぶん自分の言葉というものを駆使して、文は構築されていく。

ところが1歳の子が同じことをすることは、一般的には難しいとされる。


彼らは、自分の言葉が「無い」と見做される。


しかし、本位のところでは、彼らの言語は「ある」のだ。

もう少し正確に言えば、伝えようとしている「意志」や、伝えようとしている「事柄」が存在している。


どうやって伝えられるようになっていくかというと、基本は「借用」だと思う。


自分の伝えたい事柄に近いであろう言葉を親や周りの大人から借りて、言葉にして「試す」。


ぶーぶー。にゃーにゃー。だいたい分かる。

私は、イトーヨーカドーのことを「いといとよかど」と言っていたらしい。

ある意味では、それも自分の言葉なのかもしれない。


例えるならばそんなふうにして、今回のレコーディングでは自分の「言葉」を探した。限りなく、自分の表現したい事柄に近い音を奏でようとした。


はたまた、一緒に音作りをしてくれる人に、そのように依頼した。


世の中にあふれている常套句や定石というものの価値は、痛いほど知っているつもりだ。


説得性、認知性、伝わりやすさ、口当たりの良さ。


それを踏まえた上で、そのようなものは自分の食指を動かさないことを自分でよくわかっている。


例えば、僕はミスチルが好きだ。

名もなき詩やAny、終わりなき旅といった楽曲に何度も何度も救われた。

一枚目のアルバムは、多分そういったものへのあこがれが強く出ていたように思う。良くも悪くも、「作りたいもの」を作った。


作って、思った。

たぶん、もうこんなアプローチはやらない、と。


衝動的に、そういうアプローチをやりたくなるときはある。

ライブに来てくれた人は知っていると思うが、SINGやEverlasting、負け犬といった楽曲はそういう側面が強い。

これからも多分やることはあると思う。

しかし、自分の作品物としてその曲たちが残る可能性は、残念ながら今の所非常に低い。

たぶん、録音物にそんなアプローチは望まないのだ。

自分はポップスをやっているというフィルターや観念が、その曲達を作らせた。


今は、「モリタクロウ」の音楽をやろうとしている。

その第一歩として、今回のアルバムを推し進めた。

自分が、いわゆるポップスというもののアプローチをやることに、もうなんの魅力も価値もなくしてしまった。


自分の行為に価値や魅力を感じなくなったなら、多分もうその行為をやめたほうがいい。


さらに言えば、僕は関西で生きる意味を見失っていた。

自分の行為に価値や魅力を感じなくなってしまったからだ。


自分が自分を好きかどうかはさておき、今は自分の行為に意義を感じられるくらいには、人生を愛せていると思う。

自分の不器用さも含めて。


本当に何もできないのだ。普遍的な価値はないと思っている。

しかし、普遍を定義できないくらいには、僕は世の中を知らないし、知らないまま死んでいくと思う。

それでも、きっと興味を保つなにかには出会えるし、それはその時にじっくり楽しもうという、楽観やゆとりは持つ事ができたと思う。


できないことがあるからこそ、自分の立ち位置が生まれる

僕の見ている風景は、僕にしか見えていないからだ。

しかし、その風景は僕を見ている。

お互いに、認識しあっている。

この時点で、実は一人ではない。

一人でないことがわかれば、そこにコミュニケーションを生むことは可能だ。

そこから広がる。


私は、私の見ている風景と対話をしている。

彼は、あくまであるがままを見せようとしている。

僕は、あくまであるがままを見ようとしている。

そうして言葉にして、音にして。


それを第三者と共有できたなら、多分それは幸せ以外の何物でもない。

僕は、このアルバムでそれをしたかったし、本当は前回もそうなのだ。


私の見ている風景が、他の人によってプリントアウトされる時、その精度がわかってしまう。

ズレていれば、修正する。

レコーディングとは、その繰り返しである。


果たして僕は今回それをやれたのか。

それは多分、次のアルバム制作を始めてからわかることなのだと思う。


年内にもう一度文を書く。

それだけは、私自身と約束をしたい。


2021.12.13 モリタクロウ

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