氷の世界

なんたって7月は夏のはじまりというイメージが強く、今年も見事に夏真っ盛りという状況である。


今年の夏は、例年とは違いが多い。

まず、梅雨明けが遅かった。

ジメジメした空気が気温と相まって僕らの気分を鬱屈させたし、逆に梅雨が身体に合う人々は非常に気分の良かった時期かもしれない。


次に、最高気温。

6月からの話であるが、アメリカ北部やカナダでは異常に気温が上がった。

カナダでは最高値49.6℃をマークしたというから驚きである。

よく人間生きているなと思ってしまう気温だ。

日本では、北海道で38℃をマークした。100年ぶりらしい。100年前に一体何があったのか…?

何はともあれ異常である。

もしかしたら、地球は本当に人が住めなくなってしまうんじゃないかと強く思っている。強く思っているからと言って、なにか強い行動を起こせるほど僕は強い人間ではないなあと思っている。悲しいが、せいぜいゴミをゴミ箱に入れたり、ご飯を残さず食べるとかくらいしかできない。そんなもんだ。


そして、オリンピック。

個人的には、気温と同じくらい高いテンションで状況を見ている。

去年のBLMの動きや昨今のLGBTの動きなどもあり、これまで見られなかったアスリートたちの共有感覚が芽生えてきている気がする。

日本はかなり結果を残しているし、歴史的に重要なオリンピックになるのは間違いない。

あまり深く言及するつもりはないが、どうも世の中にはこのオリンピックをどうしても「失敗」にしたい人と「成功」にしたい人の二極化があるように感じる。

心配しなくとも、オリンピックの成否は志の高いアスリートたちがすでに示してくれている。


最後に、コロナ。

コロナ禍で迎える、二回目の夏である。

———

先日自由が丘にあるハイフンというお店に、シンガーソングライター仲間である堀江美帆氏とKEI氏のライブを観に伺った。

そもそもの作曲スタイルやジャンルは違うものの、二人でデュエットする場面では心地よく声が混じり合い、本当の姉妹のように見えたときがあった。

同じ方向を向くことができる仲間がいるということは、代えがたいものである。


誰かに会う機会が減ると、こんな風な演奏が強いガソリンになる。

僕は、8月に控えたレコーディングのことを考えていた。


曲を作ることは、誰かに頼まれてやることではない。

歌を歌うことは、誰かに頼まれてやることではない。

表現をすることは、誰かに頼まれてやることではない。

すべて、自分の意志である。


それも、やらねばという気持ちは決して先にこない。


———


31日、僕はベーシスト兼エンジニアの篠崎歩と予定を合わせていた。

今回のレコーディングの件とはまた別なのだが、単純に、何かを録りたくなった。


何を録るかはちゃんと決めていなかった。

しかし、一昨年書いた曲を僕はまだ音源化していなかったので、その準備も兼ねてデモを作ろうと思っていた。


電車に乗ったと同時に、新しく曲を書こうと思った。

書きかけていたサビがあった。それを、どうしても形にしたくなった。



こんなに密度の高い作曲時間を過ごすことは久しぶりだった。

フックになる自然なメロディを思い浮かべて、音数と脳内の響きを頼りに歌詞を探す。

なるべく直感的に、なるべく丁寧に。

ずれたら捨てる。

ずれなければ、言葉を命綱にしてちょっとずつ崖を降りてみる。


とにかく、喜怒哀楽が嵐のように僕を駆け抜ける。

素直な気持ちを、できるだけ無理のない言葉に落とし込む。


作曲している時、僕はこの世で最も情緒不安定な男になっている。


———


一時間ほどで書いた曲をマイクに乗せる。

頭の中とIPhoneのメモを頼りにコードをつけ、今まで弾いたことの無いような進行を弾いた。

頭の中でなっているはずのサウンドがフィジカルに落ちた時、はじめましてのような感覚に陥る。

そして、歌を乗せた時はもう、歌が一人で立って歩き始めている。

この瞬間、僕は最高にハッピーを感じる。


———


僕はそのあと篠崎氏と、井上陽水さんのレコードを聞きながら肉を頂いた。

氷の世界を聴いていた。


そうなんだよ、每日吹雪なんだよ今は。

どんなに暑くても明るい気持ちになれない、吹雪。

でも、あれだけ軽い口調でしっとりとねっとりと僕らを揺さぶる陽水さんの歌は、決して冷たくなかった。

温かいエネルギーだった。

少なくとも「やらねば」とはやっていない。

彼は、彼自身のエネルギーを、あんなふうにアウトプットしているだけなのだ。

身体にたまったものは、外に出さなければならない。

ただそれだけの話だ。それがシンガーソングライターにとっては、曲を書き、奏で、歌うことなだけなのだ。


———


人から学ぶ。

それが技術だけだは何者にもなれない。

在り方そのものを、学ぶ側がどう受け止めるかだけなのだ。

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