歳を重ねることの、確かな「意味」
地球規模でひどく高い気温を記録したと思えば、盆も過ぎた頃には急降下する気温とともに急速に日が暮れるようになった。
悲しいことに、未だ新型コロナウイルスという脅威は留まる素振を見せない。
暦の上では、秋になってしまったというのに。
8月、僕は3年前と同じようにレコーディングを行っていた。
二枚目のアルバムだ。一枚目とは、全く違うサウンドを構想している。
イメージは、今年の春あたりからすでにあった。
小さい編成でアルバムを作りたい。
というより、1stアルバムに収録している曲の殆どがバンド編成での演奏を想定したものだったため、近年(2019年以降)に作曲して溜めた曲を残したくなっていたというのが本音である。
ただ、今回はその想定の外のことがとても多く発生した。
とても、ありがたかった。
レコーディングについては、現在も進行中である。
時が来たら、また詳しく書こうと思う。
ひとまず、僕はそんな雰囲気でこの夏を過ごしていた。
レコーディングのことを考えているうちは良かった。
しかし、ソレ以外の時間の閉塞感がすごかった。
何もできないといいながら、ライブは各地で行われており。
人を集めてはいけないという強迫観念に近い思いを抱かされていると思えば、人を集めて催す人も、まあ全然普通にいた。
しかし、ずるいとかではない。
もしも世間の通念的感覚から音楽がこぼれ落ちていくようなことがあれば、無数かと思うほど暮らしている人間の、ほんの一側面が露呈しただけの話だ。
いくらでも悪く言えるし、またその側面に対していくらでも見方を変える自由を持っている。
みんな、それぞれ自分の生活の中で生きている。
結局の所、それしかできないのだ。
いくら閉塞感を感じようとも、自分の生活を続けるしか無い。
靴屋は靴を売り続け、家事は每日進行し、僕は毎晩歯を磨いて眠れなくとも横になる。
結局の所、それしかできないのだ。
僕は、次の誕生日が来たら33歳になる。
つまり、丸33年生きたことになる。
それは、33年死んだわけだ。
32歳の僕は、およそ後半年で死ぬ。
そう考えると、それがデルタ株だろうがなんだろうが、私の人生を明け渡すわけにはいかないという臨場感が湧いてくる気がする。
歳を重ねるということは、生きた年数と同様に、死んだ年数も重ねるということ。
32年間が死んだと思えば、33年目に対する見方はもっとシビアになる。
そして、死ぬということは、決して悪いことではない。
死ぬために生きている。ただ、それだけ。
レコーディングをしているとき、幸せだった。
体力のなさを恨んだ。
精一杯生きている気がした。
何が書きたいか。
たぶん、人生で一番生きている実感と死んでいる実感があった一ヶ月だった、ということである。
2021.8 モリタクロウ
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